ロシアと中国という大国に挟まれた内陸国モンゴル。モンゴルは世界13位の面積をもつがGDPは191各国中131位(2018年)、世界的に見れば途上国の部類だ。軍事力も131カ国中105位と強いとはいえない。そんなモンゴルもかつて世界を手中におさめた時代があった。それが13世紀に誕生したモンゴル帝国だ。
チンギス・カーンとその子クビライ・カーンの時代に最盛期を迎えた帝国は東は朝鮮半島、西は今のポーランドあたりまで領土を拡大し、ユーラシア大陸の三分の一支配した。当時、モンゴルの人口は200万人とされ、その内、蒙古兵はわずか数万人だったされ、たった数万人の兵力でモンゴル帝国は数千万人の人口と3300万平方メートルの巨大な帝国をつくり上げた。なぜ、わずかな兵力で、この巨大な帝国を樹立できたのか?モンゴル帝国・蒙古兵の強さの秘密は何だったのか?
食料が豊富
「腹が減っては戦はできぬ」というように、どんな屈強な兵士も空腹では本来の強さを発揮できない。戦場での食料の調達は兵站上、重要課題。遊牧民族である彼らは遠征にヤギや羊など家畜を全て連れて行った。家畜の食料は草であり、大抵どこでも調達できるの困ることはない。そして、腹が減れば家畜を解体して食べる。それ以外にも乳を飲んだり、チーズといった加工品にしたり、馬の乳は馬乳酒という酒にも変えた。これによって、食料の補給なしでも長い遠征を可能にした。それでも食料が尽きた場合は近くの村から現地調達するなどもした。
最強の騎兵
遊牧民の彼らは生まれて間もない頃から馬に乗り、馬術と狩りを学ぶ。大人になる頃には立派に馬乗りとなり、騎兵としての能力は他国に比べて非常に優れていた。彼らは軽騎兵と重騎兵の2つの騎兵を巧みに使い分けた。軽騎兵は身軽な格好で馬上から弓を放つ騎射を行い、矢の雨を降らせ、機動力を使って敵を混乱、そして、鎧と槍を携えた重騎兵が敵陣に突進する。騎兵は一人で2頭以上の馬を持って移動し、疲れた馬を乗り替えることによって、長い遠征でも機動力を維持。予想を超える移動を行い敵を驚かせた。
火薬を使用
剣や槍、弓矢といった一般的な武器に加えて蒙古兵はいち早く火薬を武器として取り入れ、火槍や火薬玉を戦場に投入した。攻城戦では、これを投石機に載せて放った。鉄砲の原型ともなり、日本では「てつはう」呼ばれたこの武器は、殺傷力は少なかったが、火薬を見たことない西洋や日本では相手をビビられ、混乱させるには十分効果があった。
兵士への褒賞
戦場で戦果を上げた兵士に身分や土地、金銭を与えるというのは、どの国家でもあったが、彼らは支配した部族の捕虜や兵士にも身分や領土といった褒賞を与えることで、士気、忠誠心を与え、傘下に置き戦力化した。支配された部族が他の部族を支配するというヒエラルキーを作った。
情報収集
彼らは間者(スパイ)を多用し、進行する国へ対して諜報活動を行い、攻め入る前に事前に情報を収集した。また、攻め入る際も先に捕虜や支配した国の部隊を先に攻めさせ、相手の実力や戦力を図った上で、その後の戦術を考案、それから本隊の蒙古軍で攻めるなどして、蒙古軍の犠牲を最小限にした。
残虐性
蒙古兵は抵抗する部族の住民を皆殺しにし、その遺体を晒すとい残虐性が有名だった。だが、これは彼らの一つの戦略であった。戦闘、侵略は多大な犠牲を伴う。最強の蒙古兵といえども、なるべく戦いたくはなかった。そこで彼らは一部で残虐行為を行う事でそれを流布し、恐怖を植え付けた。抵抗しようとする者には「降伏するか皆殺しか」を迫り、戦わずして敵を降伏させた。