ジェノサイド(genocide)とは国家、人種、民族、宗教といった特定の集団を別の集団、組織が計画的に破壊、虐殺することである。人類の長い戦いの歴史の中で虐殺は度々起きてきた。紀元前から古代、中世では戦争に敗れた国の民が虐殺されるのは当たり前の事であり、中世から近代史においては宗教間による虐殺、大航海時代にはアメリカ大陸や新大陸で先住民への虐殺が行われきた。しかし、この時にはまだジェノサイドという言葉は無かった。ジェノサイドという単語が生まれたのは第二次世界大戦中の1944年にユダヤ系ポーランド人の法律家ラファエル・レムキンがギリシャ語の genos(種族)とラテン語 cide(殺戮)を組み合わせて作った造語であった。そう、まさしくこの時はナチスによるユダヤ人の大虐殺が起きていた時である。戦後の1948年にはジェノサイドといった人類の愚かな行いを二度と起こさないよう国連でジェノサイド条約が採択され1951年に発行された。138各国が締約している。残念ながら日本は締約していない。
近代史で起きたジェノサイド
1900年以降に起きたジェノサイドの事例10件を上げる。中には現在進行形もある。
ナチスのホロコースト‐600万人
ジェノサイドという言葉生まれたきっかけになり、人類史上最大の直接的な虐殺。第二次世界大戦前後の1930年代から40年代にかけてナチス・ドイツが反ユダヤ主義を掲げヨーロッパ・ユダヤ人を強制収容所に送り強制労働を課した。しかし、目的はユダヤ人の絶滅であり、ガス室、銃殺、人体実験、飢餓など様々な手法で老若男女関係なく死に追いやった。少なくとも600万人が虐殺されたとされている。この時、ナチスはユダヤ人以外にもジプシーと言われるロマ人にスラヴ人や同性愛者への迫害も行っており、それらを合わせると1000万人以上といわれる。
ホロモドール‐750万人
ホロコーストの前の1932~33年に当時ソビエト連邦の一つだったウクライナで起きた人工飢餓による虐殺。ウクライナはヨーロッパの穀倉と言われるほど農業が盛んな地であり、ウクライナの小麦は当時のソ連にとって食料、そして外貨獲得のための輸出品として重要だった。社会主義だった当時のソ連高官は農民たちに過酷な収穫高を課した。収穫高に達しなかった農民は食料を徴発され、反発したり隠す者は強制収容所に送られた。次第に自分達が食べる食べ物が無くなった農民たちは人肉を食べるほど追い詰められ多くが飢餓によって亡くなった。その数は750万人にも及ぶとされる。
ポル・ポトとクメール・ルージュのカンボジア大虐殺‐140~300万人
東南アジアの国カンボジアで1975~78年にかけてポルポト率いるクメール・ルージュによって行われた虐殺。75年にクメール・ルージュが首都プノンペンを占領し、政権を握る。ポルポトは学校、病院、銀行といった都市機能を停止、貨幣も廃止し、首都の人間を全て農村に移住させ農業に就かせた。農民を優遇し、洗脳しやすい子供を重宝し兵士に育て上げた。逆に知識人は政策の邪魔になると考え、メガネをかけている、字や数字が分かる者、医者や教師など知識人は片っ端から殺害した。自動車や機械の使用を禁じ、全て人力によって農業やダムの建設が行われ、過酷な労働と生産力の低下から飢餓が発生。病気も満足に治療できず多くの民が無くなった。140~300万人が亡くなったされ、300万人は当時のカンボジアの人口の30%に相当する。
アルメニア人虐殺‐150万人
19世紀末から20世紀初頭にかけてオスマン帝国(現在のトルコ)によってアルメニア人が虐殺された。アルメニア人はオスマンの中では少数民族だが良好な関係を保っていた。しかし、ムスリム国家の中においてキリスト教を信仰する者が多く、更に敵対するロシアがアルメニア人を支援するとアルメニア人の民族意識が高まり民族運動に発展、テロ活動が起きる。第一次世界大戦が始まるとトルコの民族主義が高まり対立が激化する。1915年アルメニア人はロシアと結託してオスマン帝国の転覆を図ったとされ虐殺が起き、多くの民がシリア砂漠へ国外退去になる。これは徒歩による過酷な行進で道中150万人が亡くなった。この数はオスマンにいたアルメニア人の約半数の数になる。
インドネシア9月30日事件‐300万人
1965年9月30日にインドネシアで起きた軍事クーデーターに伴う大虐殺。スカルノ政権下だった当時、陸軍、インドネシア共産党と2つの大きな政治勢力があった。そのような状況下の9月30日に陸軍のトップ6人が国軍左派に殺害される。この軍事クーデーターは戦略予備軍司令官スハルト少将によって速やかに制圧され未遂に終わる。そこでスカルノ大統領はスハルトに治安回復の全権を委任する。スハルトは今回のクーデーターの背景にインドネシア共産党がいると考え、共産主義者への攻撃が始まる。スハルトはこれを一般市民から構成される親米派の民兵集団プレマンに託した。軍ではない彼らはチンピラ同様で秩序は無くその手法は虐殺だった。100~300万が虐殺され、その中には共産主義ではない40万人の華僑も含まれていた。これは裕福な華僑に対する妬みとされている。この裏では親中派のスカルノ政権と共産政権の台頭を阻止するためにCIAが暗躍されていたと噂されている。
ルワンダ虐殺‐100万人
1994年にアフリカはルワンダで起きた虐殺。当時のルワンダは多数派民族のフツ族が政権を握っており、不満を持つ少数派民族のツチ族との紛争が1990年から続いていた。1993年にハビャリマナ大統領が停戦命令を出すが、1994年に大統領が暗殺される。これを機にフツ族の過激派たちによるツチ族の虐殺が始まる。虐殺は兵士だけなく一般のフツ族にも奨励され行われた。男性は殺害、女性は強姦の上、殺害された。また、ツチ族に協力したとされるフツ族の穏健派も虐殺の対象となり、同じ民族同士の虐殺も行われた。これは100日間続き、100万人のツチ族とフツ族が殺害され、25万人の女性が強姦された。
ユーゴスラビア紛争の民族浄化‐3万人
1990年代に起きたユーゴスラビア紛争中のボスニアで民族浄化の名のもと行われた大虐殺。ユーゴスラビアは建国時から多民族国家で特に主導するセルビア人とその他の民族間で対立があった。1991年に紛争が勃発するとスロベニア、マケドニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナが独立する。しかし、ボスニアではセルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人の3つの人種が対立して紛争が起きる。1995年7月ボシュニャク人が住むスレブレニツァにセルビア人のラトコ・ムラディッチ率いる軍が侵入するとボシュニャク人の子供老人女性も含む8000人が殺害され、女性の多くは強姦された。これらのセルビア人のボシュニャク人へに対する行為は他の地域でも見られ3万人が虐殺されたとされている
ISISによるヤジディの虐殺‐4,000人
イスラム国(IS)によってイラクのクルド人に対して行われた虐殺。イラク北部にクルド人自治区があり、シリア国境に近いシンジャールという地域には民族宗教ヤジディを信仰する宗派がいた。当時イラクで勢力を伸ばしたいたISがこの地にも侵攻してきた。奴隷制の復活を宣言していたISは6000人以上の女性と子供を奴隷として売りさばいた。そして残った男性と高齢者数千人を虐殺する。イスラム教国家を宣言するISはヤジディを邪教として攻撃対象としていた。
ダルフール紛争‐50万人~
アフリカはスーダン西部のダルフール地方で今なお続いている紛争で起きている虐殺。ダルフールはリビア、チャド、中央アフリカ、南スーダンと国境を接するなど多くの民族が混在する不安定な地域。ここで2003年より非アラブ系住民とアラブ系住民の対立から紛争が起こる。政府が支援するアラブ系住民の民兵組織ジャンジャウィードが攻勢にでるも民兵の集まりである彼らに秩序は無く、虐殺や略奪、強姦が横行する。政府はその事実を知りながらも黙認して支援を続けていることで世界から非難を浴びているが敵対する非アラブ系の民兵組織も行っており、双方による虐殺の応酬が続いている。紛争以降50万人が虐殺されたとされ、それは今なお増え続けている。
ロヒンギャ虐殺‐4万人~
ロヒンギャとはミャンマーのバングラディシュ国境沿いのラカイン州に住む少数民族。彼らはバングラディシュから移住してきた違法移民としてミャンマー内では扱われており、また仏教国家であるミャンマーにおいてイスラム教徒である彼らは忌み嫌われている。軍事政権時代ではロヒンギャを始めとした少数民族は軍によって迫害されていた。アウンサン・スーチーのもと、民主化になった今でもロヒンギャへの迫害は続いており、国軍や治安部隊による組織的殺害、暴行、強姦が起きている。130万人いたロヒンギャのうち40万人が既に難民と化し、数万人が虐殺されるなどしている。これに対し何の策も出さないスーチー氏に対してノーベル平和賞を返還せよという声が上がっている。
ジェノサイドは過去ではなく現在でも起きている事象だ。人権問題にうるさい欧米のニュースはでよく扱われる内容になるが、日本ではこのような国際ニュースが報じされることは少なく、知る人が少ないのが現状だ。