伝説のパイロット、タスキーギ・エアメンの最後の一人が102歳で亡くなりました

伝説のパイロット、タスキーギ・エアメンの最後の一人が102歳で亡くなりました
100歳のチャールズ・マクギー氏(US Air Force)

アメリカ軍初の黒人パイロットの一人でアフリカ系アメリカ人のみで構成された飛行隊である「タスキーギ・エアメン」の最後の生き残り、チャールズ・マクギー准将が16日亡くなりました。102歳でした。

チャールズ・マクギー氏は第二次大戦時、米軍初の黒人戦闘機パイロットとして参戦。その後、朝鮮戦争、ベトナム戦争にも参戦するなど30年間の軍務の中で彼は409回の戦闘任務に参加。生ける伝説でした。

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第二次大戦で誕生した初の黒人パイロット

US Air Force

マクギーは1919年オハイオ州で生まれます。黒人である彼の祖父はもともと奴隷で、父は聖職者になり、第一次世界大戦には従軍牧師として参戦しています。マクギーは秀才でアメリカの名門イリノイ大学に入学、工学を学びます。在学中の23歳の時に結婚。その翌日に航空士官候補生として宣誓。当時、まだ空軍はなく、1942年10月、陸軍に入隊。その後。1941年に創設されたばかりの米軍初の黒人航空部隊「第99追求部隊」こと”タスキーギ・エアメン”に配属。1943年6月に軍の飛行バッジを得ます。

タスキーギ・エアメンとは

タスキーギ・エアメン
US Air Force

タスキーギ・エアメンとは黒人用大学タスキーギ大学で始まったパイロット訓練プログラムから発足した黒人による航空部隊です。南北戦争で北軍の勝利の末、黒人奴隷は解放されるも、当時から北軍でも黒人は白人とは別の黒人だけの部隊が設けられたいました。第二次大戦時もそれは同様で、軍の人種隔離政策のもと、白人やヒスパニック系とは分けられ、黒人は黒人だけの部隊を編制。その中で、1941年に設立された「第99追求部隊」こと”タスキーギ・エアメン”は黒人初の航空部隊になります。とはいえ、当時の黒人兵士の主な役割は給仕、コック、メカニック、荷下ろし、基地の設営といった労働的な役割が主で戦闘に参加することはほとんどありませんでした。タスキーギもそれは同様でした。

1943年6月にイタリアに配備されるも当初は戦闘が伴うような実戦任務はほとんどありませんでした。しかし、そんな中でも成果を上げていくと、その後、戦力としてカウントされるようになり、1944年2月、第301・第332戦闘飛行隊の一員としてドイツに向かう爆撃機の護衛任務を任され、初の実戦に参加。彼らの航空機の尾翼には深紅の識別マークをペイントしていたことから「レッド・テイル」または「レッド・テイル・エンジェル」と呼ばれます。第二次大戦中、タスキーギは250機の敵機を撃墜するも84人が命を落としています。

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チャールズ・マクギーの戦果

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マクギーは第332戦闘飛行隊のパイロットとして1944年に初めて実戦に参加。P-39エアラコブラ、P-47サンダーボルト、P-51マスタングを操り、137回にも及ぶ、パトロール、護衛、機銃掃射の任務を遂行します。

1948年にトルーマン大統領が人種隔離政策を終了させると、マクギーは1947年に発足した米空軍の黒人初のコマンドポストに就きます。1950年に朝鮮戦争が勃発すると67戦闘爆撃機飛行隊の一人としてP-51マスタングに搭乗して参戦、100以上の戦闘任務をこなし、少佐に昇進します。1965年に始まったベトナム戦争では、中佐としてマクドネルRF-4偵察機に搭乗し、172回の戦闘任務を遂行します。1973年1月31日に大佐として退役するまでにマクギーは30年間で通算409回、6,300時間以上の飛行任務に参加。殊勲飛行十字章、ブロンズスターメダルなど数多くの勲章を受け取っています。2020年には大佐から准将に昇進しています。

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Source

https://www.airforcemag.com/tuskegee-airmen-charles-mcgee-dies-at-102/

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