実在した歴史に残る弓の名手9人

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実在した歴史に残る弓の名手

弓矢は旧石器時代より、人間が使ってきた狩猟道具であり神具になり人類の文明の発展において欠かせない道具であった。また、武器としても使われ、銃が誕生するまで長らく間接攻撃武器として使われ、その長い戦争史上、多くの弓の達人・名手といわれるものが誕生し、歴史に名をのこした。歴史に残る弓の射手を紹介をする。

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源 為朝(みなもとのためとも)

源 為朝(1139-1170)は平安時代の武将で源頼朝、義経兄弟の叔父になる。当時では大変珍しい2メートルを超える巨体を誇り、弓を支える左手が右手より12cm長かった。その身体を活かした弓は強力だった。1156年の保元の乱では一人目の体を貫通した矢が後ろの兵士の鎧も貫き平家を驚愕させた。その後、戦いに敗れ伊豆大島に流刑になるが為朝はそこで乱暴狼藉をはたらき、討伐の命が下る。迫る軍船に対し、為朝は矢を放ち、矢で船を沈没させた。その後、彼は自害する。

那須 与一

那須 与一(1169-1232)は平安時代の末期の武将になり1180~1185年の「源平合戦」では源氏側で戦った。幼い頃から弓の名手として知られ、1185年の「八島の戦い」では夕刻の休戦状態の中、平家が船の甲板の上に扇を設置し、射抜いてみよと源氏を挑発。推薦された与一がこれに挑戦し、波で揺れる扇を見事と射抜いて見せた。これは平家物語にも記されている。

ヘリワード・ザ・ウェイク(ロビン・フッド)

ヘリワード・ザ・ウェイク(ロビン・フッド)
ロビンフッド銅像

弓の名手として有名なロビンフッドだが、実は中世イングランドで吟遊詩人によって生まれた伝説の射手で実在した裏付けがない。しかし、吟遊詩人が語り継ぐ上ではモデルになった人物がいる。それがヘリワード・ザ・ウェイクだ。サクソン人のウェイクは当時イングランドを支配したノルマン人に領土を奪われ森などに潜みゲリラ的な戦いを行って略奪などで抵抗していた。ロビンフッドは弓の名手のイメージが強いがアウトロー、義賊であり、いろいろ尾びれついており、弓の名手の真意は不明である。

ウィリアム・テル

ウィリアムテルは世界的に有名なスイスのクロスボーの名手になるが本当に存在していたという確かな記録はない。しかし、スイス人の6割は実在したと信じている。言い伝えによると、14世紀に彼はスイスを治めるオーストリアの領主に対する反抗的な態度で逮捕され、死ぬか息子の頭の上のリンゴを射抜くよう命じられる。矢を外しても彼は死ぬことになる。しかし、彼は一発でリンゴを射抜いて見せた。その後、彼はもう一本持っていた矢で領主を殺害した。これがきっかけでスイス独立の火がついた。

エイナル・サンバルスケルヴィル

エイナル・サンバルスケルヴィル(982-1050)は11世紀のノルウェーの政治家にり、ヴィキングで最も恐れられた射手であった。農家の息子として生まれ、幼い頃から弓で熊や狼を狩っており、若くして弓の熟練者となり名声を得る。支配階級であったエイナルは軍を率いてオラフ王の戦いに参加する。そこでエイナルの弓は敵の矢を受けて折れてしまう。王はエイナルに自身の弓を渡すが「王の弓は弱い」といって剣と盾をもっと戦ったことがサガに記録されている。

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岳飛(がくひ)

岳飛(1103-1142)は中国南宋の武将になり、中国史の歴史上の英雄として人気が高い。農民での岳飛は軍功でのし上がった叩き上げであった。弓の名手でもあり、初めて出た弓の競技大会で240歩離れた標的の命中点に9本連続的中させ、1位になった。その後の大会では、すでに偉大な射手として知られ、すべての対戦者を打ち負かした。優れた武勇と武勲で好かれた岳飛だが、その人気を恐れた宰相によって濡れ衣を着せられ、39歳の時に処刑させる。その後、冤罪は晴らされ、名誉は回復している。

呂布(りょふ)

三国志の登場人物の中でも人気の中国後漢の猛将。豪傑で剣術、馬術に長け、「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と称賛させる豪傑であった。その戦いぶりは無敵であったが、近接戦闘だけでは弓術にも長けていた。ある日、領地の近く通る敵軍の姿を発見。その距離は200歩ほどになるが、呂布はそこから威嚇のため3本の矢を放ち、見事、3人の頭を射抜いて見せた。しかし、豪胆な正確から人心は薄く、トラブルも多く仲間割れ、最後には曹操によって処刑される。

黄忠(こうちゅう)

中国後漢から三国時代の蜀漢の武将。三国時代には既に老将になっていたが五虎大将の一人にもなった。60歳で迎えた関羽との一騎打ちでは互角の戦いを見せるも馬が負傷し万事休すの事態に陥るが関羽は馬を代えるように伝え首を取らなかった。再戦時、黄忠は追撃する関羽に矢を放ち関羽に命中するが、先日の恩義を感じた黄忠は兜の緒に命中させる。関羽の命を奪うことなく撤退させた。その後、劉備に仕え、関羽とは共に戦うことになる。

東明聖王

東明聖王は紀元前の高句麗(朝鮮)の初代王になる。生まれた時の名は「朱蒙」になり、意味は「弓の達人」である。その名に恥じず7歳になると自ら弓を作り、弓の名手となるがそれが原因で他の王に厭われることになる。三国志には「馬に乗り弓を射ること巧みで、凶暴だったため、王は東明が自分の国を奪うのを恐れ、再び殺そうとした。東明は国を逃れ、南へ走り施掩水にやって来て、弓で川の水面を撃つと、魚や鼈が浮かび上がり、乗ることが出来た、そうして東明は夫余の地に至り、王となった。」と記されている。

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