シール・チーム6の最初の司令官リチャード・マルシンコが81歳で死去

シールズ・チーム6の最初の司令官リチャード・マルシンコが81歳で死去
Richard Marcinko Facebook

オサマ・ビン・ラディンを殺害し、米軍で最も高度な特殊部隊の一つである、ネイビーシールズ”チーム6 DEVGRU(デブグル)”の最初の司令官であったRichard Marcinko(リチャード・マルシンコ)氏が、クリスマスの日に心臓発作のため81歳で亡くなりました。 彼は30年に渡りネイビーシールズの隊員として国に奉仕し、ベトナム戦争の英雄であり、伝説のシール隊員でした。

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経歴

1940年11月21日にクロアチア人の父とスロバキア人の母との間にペンシルベニア州ランズフォードで生まれます。海兵隊に入隊を試みるも高校を中退していたため、入隊資格を持っておらず、断られますが、1958年9月、彼は無線士として米海軍の入隊にこぎつけます。1961年、21歳の彼はネイビーシールズの入隊試験を受け、同年に訓練課程を終え、シールの資格を取得、1966年2月に”シール・チーム2”に編入されます。

ベトナム戦争

1967年、マルシンコはチーム2と共にベトナム戦争に派兵されます。北ベトナム兵のゲリラ戦に手を焼いていた米軍でしたが、彼もブービートラップなどを用い、ゲリラ戦を展開。同年5月には部下を率い、イロイロ島を襲撃。そこで多くの敵兵を殺害、6隻のサンパンと呼ばれる木製ボートを破壊します。この作戦は米海軍によって「メコンデルタで最も成功したSEAL作戦」と評価されます。その数か月後の二度目の派兵ではテト攻勢に参加、陸軍特殊部隊の支援、閉じ込められたアメリカ人の看護士や先生の救助任務を担います。これらのベトナム戦争での功績を受け、彼は戦争中、ブロンズスターメダル4個、シルバースターメダル1個、バロールクロスメダルなど、合計34個をメダルを獲得、そして少佐に昇進します。

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チーム6の創設

1979年、イランアメリカ大使館人質事件の救出作戦(イーグルクロー作戦)において陸軍の特殊部隊デルタフォースが救出任務を失敗、多大な犠牲を出します。この時、マルシンコは作戦のタスコフォースTAT (テロ対策チーム)に参加する海軍代表2人のうちの一人でした。この失敗を受けて海軍でも専任の対テロチームを必要性が認識され、海軍提督はマルシンコに部隊の創設と最初の指揮官になることを命じます。この時、シールズにはチーム1とチーム2の2つの部隊しかありませんでしたが、マルシンコは当時敵対するソ連を牽制するために飛び番の”チーム6”と名付け、あたかも6つのシールチームがあることを印象づけました。彼はメンバーを既存のシールチームと当時はまだ別部隊であった”水中解体チームUDT)”から選りすぐりのメンバーを選抜、1980年8月から1983年7月までの3年間、SEALチーム6を指揮します。彼が作り上げたチーム6は1987年に一度解散、その後、シールズから切り離された今のの”DEVGRU”という名で再編されます。

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彼は優秀な隊員で指揮官でしたが、破天荒でもあり、司令官時代は湯水のように予算を使い、軍需企業と組んだ陰謀と収賄などの容疑で政府から起訴され、有罪判決を受けています。

その後、海軍を退くと民間警備会社のCEOに就き、自伝の「Rogue Warrior: Red Cell 」を執筆するなどいくつかの書籍を出しています。彼の晩年の職業はライターでした。

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