フィンランド軍、SS親衛隊、米陸軍特殊部隊と3つの旗の下で戦った男

フィンランド軍、SS親衛隊、米陸軍特殊部隊と3つの旗の下で戦った男

多くの軍人は自分の国籍の軍に入隊して国のために戦い軍務を終えるのがほとんどです。中には経験やお金のために退役後にフランスやスペインの外国人部隊に入隊する人や傭兵、PMC(民間警備会社)に入り戦う人もいます。ただ、別々の国で正規軍を渡り歩くことは通常はできません。しかし、かつてフィンランド軍、ドイツ軍のSS親衛隊、米軍特殊部隊に入隊し、それぞれの国のために戦った稀有な男がいます。

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フィンランド軍に入隊

フィンランド軍、SS親衛隊、米陸軍特殊部隊と3つの旗の下で戦った男
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ラウリ・アラン・トルニ(​Lauri Allan Törni)は1919年5月28日にフィンランドのヴィープリ州ヴィープリで生まれます。​ビジネススクールに通いながら、市民警備隊に入隊し、​1938年に卒業すると、19歳のトルニは兵役に就き、第四独立イエーガー(猟兵)歩兵大隊に入隊します。その翌年、1939年にドイツ軍のポーランド侵攻が始まり、第二次世界大戦が勃発、ヨーロッパは戦火に包まれます。北欧のフィンランドも例外ではありませんでした。彼が生まれ育ったヴィープリ州はソ連軍の侵攻を受け、1939年11月にフィンランド、ソ連との間で「冬戦争」が勃発。この時、独ソ戦は始まっておらず、フィンランド軍はソ連軍の圧倒的戦力の前に劣勢に立たされます。それでも彼らは地の利を活かしたゲリラ戦に冬の戦い方を心得ており、持久戦を繰り広げます。​「ラドガ湖の戦い」に参加したトルニは、ハラルド・オーキスト将軍のもと、​12月23日、ヴィープリ近郊のソ連軍三師団をゲリラ戦法で包囲。ソ連軍を壊滅させます。その戦闘での活躍を認められトルニは少尉に昇進します。しかし、この勝利も一時であり、その後はソ連に押し込まれ1940年3月12日にモスクワ講和条約に調印。独立を保証する代償としてヴィープリを含む領土を割譲することで、戦争は翌日、正式に終結します。

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ナチス・ドイツ軍SS親衛隊に入隊

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故郷を失ったトルニはソ連への復讐を誓います。1941年にオーストリアのウィーンに渡り、ナチス・ドイツの親衛隊である「Schutzstaffel(SS)」の7週間の訓練に参加。優秀な彼はSS親衛隊少尉に任命されます。

その後、彼はフィンランドに戻ります。1941年6月に独ソ戦が始まると、その混乱の中、ソ連が再度フィンランドを侵攻、フィンランドとソ連の間で「継続戦争」が始まります。フィンランドは共通の敵を持つドイツと協力し、ソ連に対抗します。トルニは​1943年、非公式に「Detachment Törni(トルニ独立部隊)」と呼ばれる自分の指揮下の部隊を与えら、​彼の指揮のもと部隊は敵陣の奥深くに侵入しゲリラ戦を展開。ソ連軍に大きな打撃をあたえ前線で部隊は評判になります。部下の中には未来のフィンランド大統領マウノ・コイヴィストもいました。業を煮やしたソ連軍は彼の首に300万フィンランド・マルクの懸賞金をかけます。数々の戦果を上げたトルニは1944年7月9日に最高の栄誉マンネルヘイム十字勲章を受章します。

しかし、東部戦線でドイツ軍が劣勢になると、フィンランド軍も徐々に押し込まれ、1944年9月に降伏に近い形で休戦に。ソ連はフィンランド政府にドイツ軍の領土からの撤退を要求。今度はフィンランドとドイツとの間で「ラップランド戦争」が引き起こります。国に忠実な彼ですが、ドイツに銃を向けることには同意せず、ソ連に対抗するレジスタンス運動に参加。その後、サボタージュ訓練を受けるために1945年1月、ドイツに向かいます。三カ月の訓練を終え、フィンランドに戻ろうとしますが、敗北間近のドイツでは帰るための交通手段もなかたっため、彼はシュヴェリン近くでソ連軍と戦うためにドイツ軍SS親衛隊に加わります。その後、英国軍に降伏し、ドイツのリューベックにある捕虜収容所に収監されますが、脱走。1945年6月にフィンランドに戻ります。

しかし、フィンランドに戻った彼に待ち受けていたのは過酷な現実でした。国のために二度も戦った英雄ながら、ドイツ軍に協力したとして反逆罪に問われます。一度は逃亡するも1946年4月に捕らえられ、6年の刑を言い渡されます。しかし、大統領の恩赦もあり、2年で出所します。

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米陸軍特殊部隊に入隊

母国に絶望したトルニは1949年に隣国スウェーデンに逃れると、そこから船で南米のベネズエラへ。そして、政治難民として米国に渡り、ニューヨークのフィンランド系アメリカ人のコミュニティに身を置きます。その後、彼は5年間の軍務をこなせば米国市民権を得られるロッジフィルビン法を利用して1954年に米陸軍に入隊します。トルニ自身は直接戦火を交えていませんが、かつての敵国の軍に入隊することになります。そこで彼は新しい名前”ラリー・ソーン”を名乗ります。

フィンランド軍、SS親衛隊、米陸軍特殊部隊と3つの旗の下で戦った男
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フィンランドで山岳戦、雪中戦、ゲリラ戦と数々の戦場をくぐり抜け、ドイツで学んだ破壊工作のスキルを持つ彼は1952年に創設されたばかりの米陸軍特殊部隊グリーンベレーに入隊。特殊部隊隊員として既に十分な経験とスキルを持っていた彼はスキー、サバイバル、登山、ゲリラ戦術などを部隊に教えます。​空挺学校に通い、パラシュート降下の資格を取得し、軍曹に昇進。1957年には米国市民権を得ます。それから士官学校に通うと中尉に昇進し、1960年には大尉に昇進します。

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1958年から1962年までは、西ドイツのバート・テルツに駐留する第10特殊部隊グループに所属し、イランのザグロス山脈の高地で墜落した米軍機からの秘密資料の捜索・回収任務を指揮します。過去三度、別のチームが回収を試みましたが失敗。しかし、彼のチームは無事回収を成功させ、ソーンは高い評価を得ます。翌年にはベトナム戦争に参加。5度の負傷を経験しながらも、国には帰らず、戦い続けます。そこでも高い能力を発揮し、パープルハートとブロンズスターメダルを受賞します。

1965年2月、第5特殊部隊グループに所属していた彼は軍事顧問として特殊作戦部隊であるベトナム軍事援助司令部に異動。1965年10月18日、ある特殊任務のため、ヘリで移動。悪天候の中、山岳地帯で彼を乗せたヘリが消息を絶ちます。ヘリの残骸は発見するも彼の遺体は見つけることができませんでした。その後、行方不明のまま彼は戦死扱いとされ、死後、少佐に昇進。46歳でした。その後、フィンランドと米国の共同捜索チームによってソーンの遺体捜索が行われ、失踪してから34年後の1999年、彼の遺体を発見。米国に送還され、アーリントン国立墓地に埋葬されます。

フィンランドのために二度戦った彼は国に裏切られ、米国へと逃れましたが、フィンランド政府は彼を再評価し、現在は国民的英雄と見なされています。

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https://en.wikipedia.org/wiki/Lauri_T%C3%B6rni

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